質量のない雲、彫刻と生命の間 / Massless Clouds Between Sculpture and Life
teamLab, 2020, Interactive Installation, Sound: teamLab
質量のない雲、彫刻と生命の間 / Massless Clouds Between Sculpture and Life
teamLab, 2020, Interactive Installation, Sound: teamLab
生命とは、エネルギーの秩序なのだ。
作品空間に、生命と同じように、エネルギーの秩序を創った。そうすると、巨大な白い塊が生まれ、浮き上がる。
この巨大な白い塊である彫刻は、質量の概念を超越し、地面に沈むこともなく、天井まで上がりきることもなく、空間の中ほどを漂う。この浮遊する彫刻の存在の輪郭は曖昧で、千切れて小さくなったり、くっついて大きくなったりする。そして、人々はこの彫刻に身体ごと没入でき、人々によって壊されても、生命と同じように自ら修復する。しかし、生命がそうであるように、塊は、自ら修復できる範囲を超えて破壊された時、修復が追いつかず崩れていく。そして、人々が押したり、横にのけようとしても、塊を動かすことができないし、人々が風をあおげば、彫刻は散り散りになってしまう。人間の物理的な行為では、この彫刻を動かすことすらできない。
生命とは何か。例えば、ウイルスは、生物学上の生命の最小単位である細胞を持たないことや、自己増殖することがないことから、生物と無生物の境界領域に存在するものと考えられている。生物と無生物を分かつものが何であるかは、生物学上、未だに定義ができない。
石ころや、これまで人間がつくってきたものは、それ自体で安定的な構造をもつ。石ころは、外界から遮断され密封された箱に入れても存在し続けるが、生命は、そのような閉じた箱に入れられると存在を維持できない。生命は、自分自身で構造を持っていないのだ。
生命は、海に生まれる渦のようなものである。渦は、それ自体で安定した自らの構造を保っているものではなく、渦の外部から内部へ、そして内部から外部へと流れ続ける水によってつくられ、その流れによって渦の構造は維持され続ける。
渦は、流れの中にある存在であり、その存在の輪郭は曖昧である。
生命も、外部から食物として物質とエネルギーを取り込み、物質を排出し、エネルギーを外に散逸させながら、秩序構造をつくりあげている。生命は、物質とエネルギーの流れの中にある存在であり、渦と同じように、その存在の輪郭は曖昧なのである。
生命は、物質とエネルギーの流れの中にある奇跡的な現象であり、生命の構造は、その流れがつくるエネルギーの秩序なのだ。
この空間には、物質的には、ごく普通の石鹸と水と空気しか存在していない。泡は石鹸の泡である。
現在の生物学上は、生命の定義を厳密に行うことはできていないが、便宜的に、細胞を構成単位とし、代謝し、自己増殖できるものを生物と呼んでいる。つまり、全ての生物は、細胞でできている。そして、全ての細胞は、脂質二重層で構成された細胞膜で包まれている。二重層の外側は親水性、二重層の層と層の間は疎水性で、包んでいる袋の外側も内側も水である。
石鹸の泡も、同じように、脂質二重層の膜に包まれていて、この彫刻を構成している泡は、構造的には細胞膜と同じである。ただし、泡の二重層は細胞とは逆に、二重層の外側は疎水性、二重層の層と層の間は親水性になっているため、袋の外側も内側も空気である。つまり、細胞が水中の袋状の膜であるならば、泡は空気中の袋状の膜である。
空間を石鹸の泡で埋め尽くし、特異な環境によって、場にエネルギーの秩序を創る。そうすると、泡の海から巨大な白い塊が誕生し、浮き上がり、中空に定常する。
この彫刻は、生物の構成単位である細胞と同じ構造の物質と、特異な環境が生んだエネルギーの秩序によって創られたのである。
作品空間に、生命と同じように、エネルギーの秩序を創った。そうすると、巨大な白い塊が生まれ、浮き上がる。
この巨大な白い塊である彫刻は、質量の概念を超越し、地面に沈むこともなく、天井まで上がりきることもなく、空間の中ほどを漂う。この浮遊する彫刻の存在の輪郭は曖昧で、千切れて小さくなったり、くっついて大きくなったりする。そして、人々はこの彫刻に身体ごと没入でき、人々によって壊されても、生命と同じように自ら修復する。しかし、生命がそうであるように、塊は、自ら修復できる範囲を超えて破壊された時、修復が追いつかず崩れていく。そして、人々が押したり、横にのけようとしても、塊を動かすことができないし、人々が風をあおげば、彫刻は散り散りになってしまう。人間の物理的な行為では、この彫刻を動かすことすらできない。
生命とは何か。例えば、ウイルスは、生物学上の生命の最小単位である細胞を持たないことや、自己増殖することがないことから、生物と無生物の境界領域に存在するものと考えられている。生物と無生物を分かつものが何であるかは、生物学上、未だに定義ができない。
石ころや、これまで人間がつくってきたものは、それ自体で安定的な構造をもつ。石ころは、外界から遮断され密封された箱に入れても存在し続けるが、生命は、そのような閉じた箱に入れられると存在を維持できない。生命は、自分自身で構造を持っていないのだ。
生命は、海に生まれる渦のようなものである。渦は、それ自体で安定した自らの構造を保っているものではなく、渦の外部から内部へ、そして内部から外部へと流れ続ける水によってつくられ、その流れによって渦の構造は維持され続ける。
渦は、流れの中にある存在であり、その存在の輪郭は曖昧である。
生命も、外部から食物として物質とエネルギーを取り込み、物質を排出し、エネルギーを外に散逸させながら、秩序構造をつくりあげている。生命は、物質とエネルギーの流れの中にある存在であり、渦と同じように、その存在の輪郭は曖昧なのである。
生命は、物質とエネルギーの流れの中にある奇跡的な現象であり、生命の構造は、その流れがつくるエネルギーの秩序なのだ。
この空間には、物質的には、ごく普通の石鹸と水と空気しか存在していない。泡は石鹸の泡である。
現在の生物学上は、生命の定義を厳密に行うことはできていないが、便宜的に、細胞を構成単位とし、代謝し、自己増殖できるものを生物と呼んでいる。つまり、全ての生物は、細胞でできている。そして、全ての細胞は、脂質二重層で構成された細胞膜で包まれている。二重層の外側は親水性、二重層の層と層の間は疎水性で、包んでいる袋の外側も内側も水である。
石鹸の泡も、同じように、脂質二重層の膜に包まれていて、この彫刻を構成している泡は、構造的には細胞膜と同じである。ただし、泡の二重層は細胞とは逆に、二重層の外側は疎水性、二重層の層と層の間は親水性になっているため、袋の外側も内側も空気である。つまり、細胞が水中の袋状の膜であるならば、泡は空気中の袋状の膜である。
空間を石鹸の泡で埋め尽くし、特異な環境によって、場にエネルギーの秩序を創る。そうすると、泡の海から巨大な白い塊が誕生し、浮き上がり、中空に定常する。
この彫刻は、生物の構成単位である細胞と同じ構造の物質と、特異な環境が生んだエネルギーの秩序によって創られたのである。