DFUNに、掲載。2017年3月9日
TECHNOLOGY EVOLUTION OF SPACE
科技幻手 空間設計進化論
チームラボハンガーは、ハンガーにかかった商品を手にとると、センサーが作動して、ショップ内のディスプレイに、その商品のコーディネイトされた写真や動画、もしくは、デザインのコンセプトや、機能、素材の説明など付加させたい情報を表示させるインタラクティブハンガーです。
チームラボは、いくつかのファッションのEコマースの制作、運営などを行っています。ファッションEコマースでは、単体の写真よりも、コーディネイトされた写真で商品を見せる方が、圧倒的に売れます。現実の店舗空間でも、実在の商品に、コーディネイトされたビジュアルイメージなどの多くの付加情報を加えることで、商品はより魅力的に見えるはずです。『New Value in Behavior』のコンセプトによって、「 気になった商品を手に取る」という、これまで無意識的に行ってきた、より商品を知りたい時に行う行為をインターフェイスとして、多くの付加情報を呼び出します。
そして、「商品を手に取る」という行為そのものをより楽しくするため、手に取ると、音がなったり、商品の付加情報を表示させている以外のまわりのディスプレイも、インタラクションします。
情報社会におけるもプロダクトの付加価値は、モノ自体の機能よりも、ネットワーク上のデジタル領域にあると私たちは考えています。プロダクトとは、現実空間に存在する私たちと、ネットワークの向こう側のデジタル領域の間のインターフェイスでしかないかもしれません。
今回、チームラボハンガーとチームラボカメラの展示では、デジタルアートなことが、東京の実際の店舗で、もうすでに具体的に商業利用されていることを感じて頂くために、店舗を抽象的に再現しています。
DFUNに、掲載。2017年3月9日
科技幻手 空間設計進化論
TV Bros. に、掲載。Feb 29, 2012
2012年の今、時代はインターネットをはじめとした情報化社会に突入して久しい。そんな日進月歩で変容を続ける世界を飄々と飛び回り、デジタルを駆使した技術とセンスで“おもしろおかしく”世の既成概念を破壊する集団がチームラボであり、代表の猪子寿之その人だ。彼が今なにを考え、なにを試みているのか。彼の目に映る景色を少しでも共有すべく、前日に引越しを終えたばかりだという、東京・本郷にある新オフィスを訪ねた。
International Symposium of Seoul Art Space GEUMCHEONに、掲載。Oct 2011
チームラボ代表 猪子寿之 0. Introduction チームラボ チームラボはプログラマ(アプリケーションプログラマ、ユーザーインターフェイスエンジニア、DBエンジニア、ネットワークエンジニア)、ロボットエンジニア、数学者、建築家、Webデザイナー、グラフィックデザイナー、CGアニメーター、編集者など、情報化社会のさまざまなものづくりのスペシャリストで構成される集団です。
情報化以前の時代は、テクノロジー、デザイン、アートというものは、はっきりと分かれていました。例えば、車だと、デザイナーが外側を、エンジニアがエンジンを、それぞれ独立してつくっていました。しかし、デジタル領域は、その境界が曖昧になります。iPhoneの例のように、あのインターフェイスは、どこまでをプログラマが、あるいはデザイナーがつくったのかわかりません。デジタルとは、何か?もともと人間にとっては、全ては情報でしかなかったのですが、デジタル以前は、情報を媒介するため、物理的な物質が必要だったのです。デザインにしてもアートにしても。その情報が、媒介する物質から、開放されたのです。媒介する物質が、デザインやアートとテクノロジーを分断していましたが、物理的な物質から開放されたので、境界線などなくなります。このように、情報化社会では、専門性は深くなるにもかかわらず、1つのものを創るときに、それぞれの専門性だけでは創れなくなっていきます。チームラボは、専門性の高い人間が、専門性の境界をまたいで、チームでものを創っていきます。手を動かすさまざまな専門職が集まって、互いの領域を曖昧にしながらものづくりをしています。 そして、創ること・そのプロセスの中から、新たな発見をし、その発見を、次の創ることにいかしていくことを、重要視しています。 わかりにくいので、いくつか、実際のプロジェクトや作品をご紹介します。1. プロジェクト早乙女太一☓チームラボ[吉例]新春特別公演「龍と牡丹」-剣舞/影絵- 北野武さんの映画にも出演された日本の俳優・早乙女太一さんの舞台を創りました。舞台というものが、デジタルメディアで、どのような新しい舞台になるか、というコンセプトです。この映像はYoutubeで公開したところ、220万以上のヒットになっています。このように、デジタル領域は、Webだけではなく、既存の全ての領域を新たな価値のものにしていきます。
世界はこんなにもやさしく、うつくしい
壁に浮遊する書が、あなたの影に反応し、あなたを通して、書が持っていた世界が広がります。漢字一文字が持っている世界、書に込めた思い、そして、あなたの思いと、まわりのひとびとの思い、そういうものが重なって、世界が創られていくという作品です。影は、カメラに映った映像を画像処理して認識しています。人が介在するので、無限のパターンがあるため、動きを前もってアニメーションで用意するわけには、いかないので、スクリーンに映っている映像の裏側には、3D空間があり、花や木、雨や、風など、全ては、3D空間上で、物理演算で、リアルタイムに計算しています。
このように、表現、と、テクノロジーは、境界があまりにもなくなってきています。
teamLabHanger
「チームラボハンガー」は、ハンガーを手に取ると、ハンガーに吊るされた洋服などの商品が実際にコーディネイトされたイメージがモニターに映し出されるという“インタラクティブハンガー”です。
実際の店舗において売上を伸ばすため、そして、店舗でのショッピングの体験をより、楽しいものにするために、開発した一種のデジタルサイネージ。「ECサイトにおいて衣料品を売るときは,コーディネイトされた写真を掲載したほうが売れる」という、ECサイトの制作や運営を請け負うことが多いチームラボのEC運営上の経験を現実世界にも反映しようという試みです。
AR(拡張現実)のように「iPhoneをかざす」というこれまでなかった新しい行為を、顧客に要求しません。顧客に新しい行為をさせるのはリテラシーを要求することになるからです。
「ハンガーを手に取る」という、その洋服をもっと知りたいと思ったときに、もともと行っていた行為をスイッチとし、より情報を加えたり、音がなったり、インタラクションがあることで、もともとの行為をさらに楽しくしています。
これは、「New Value in Behavior」、という、チームラボのデザインする時のコンセプトの1つ、「本来の目的のためにある行為、その行為そのものに、新しい価値を加えよう。本来の行為そのものをインターフェイスにしよう。」という考えに基づいています。
これは、「スーパーマリオ」で気が付き,茶の湯で確信した考えです。スーパーマリオは,それ以前のゲームに比べて、目的そのものは比較的どうでもいいもので,マリオを操作する,その行為そのものが、気持ちいいだとか、楽しい。つまり,なにかの目的のために行為があるのですが,目的をほとんど忘れるくらい、行為そのものを消費しています。こういった考えは,茶の湯を知ることで確信しました。 たまたま読んだ100年ほど前のお茶の本に,イギリスの茶と中国の茶と日本の茶について、3章に分かれて、書かれているのを見つけました。「イギリスと 中国の茶については,どのような淹れ方をすれば、そのような飲み方をすれば、お茶がおいしくなるかが示されていました。しかし,日本の茶について本の著者は『日本の茶は,おいしく飲むためにお茶を淹れるという目的をもはや忘れていて、「俺の淹れ方のほうがカッコイイ」とか「俺の入れ方は、宇宙につながれる」とか「より精神世界的に高度」だとか,そういったことを言い,普通に考えれば,すぐ飲んだほうがおいしいはずなのに,その前に茶碗を回したほうが美しいなどとする。「そこでは本来、目的のためにある行為,その行為そのものを楽しんでいる。日本にはそういう文化があります。2.情報化社会 情報化社会では,別の変化も起こっています。言語化できる領域の共有スピードが速すぎて,もはや言語化できる領域は、競争で優位に立つ必要十分条件にはならないと考えています。情報化社会前は、テクノロジーは国によって格差が発生していました。例えば製鉄技術は,先進国とそれ以外で技術格差が存在していました。しかし、テクノロジーは、論理化でき、言語化できるので、技術格差は、なくなっていきます。
文化依存度が高くて,理由が、言語的に説明できない領域――例えば『カッコイイ,カワイイ,気持ちいい,面白い』という領域は、方法論が、共有されにくい。そこに、先進国の優位性があると考えています。
文化依存度が高い領域のほうが差異が生まれやすく,結果的に競争力につながっていきます。つまり,文化依存度の高い領域をテクノロジーで再構築したような産業が,社会インフラの高い先進国がこれから世界の中でやっていける産業なのではないかと思っています。3.アート そういう思いの中で、「では,自分達の文化はどのようなものであるか」ということに、強い興味があります。「文化をひもとくこと、つまり、文化の裏側にあるもの。それは,世界をどのように捉えているのか?」そのようなことを知りたいと思い、アート作品を作っています。アート作品を創るプロセスで、そのようなことが発見できると思ったからです。 僕は、日本人なので、日本のこと中心の話になりますが、もしかしたら、東アジアに共通する話なのかもしれません。
西洋文明が入る以前、日本は江戸末期(19世紀後半)まで鎖国をしていたので、人々は、今とは違った風に、世界を捉えていて、結果、今とは違った風に世界が見えていたんじゃないか?という思いがあります。 しばしば日本画については,日本には西洋の遠近法(パースペクティブ)がなかったので平面的に描いていたのではないか,といわれます。だが,当時の人々は、日本画のように世界が見えていたから,そのとおりに描いたのではないだろうか?と考えています。そして、当時、日本画を見たら、そこに空間を感じていたのではないだろうか。現代人が写真という平面を見ると,そこに空間を感知するように。つまり、日本画の平面は、西洋のパースペクティブとは違った論理が発達した空間だったのではないだろうか?と、チームラボは考えています。 3次元空間上に立体的に構築された世界を、日本の先人達の空間認識を再現するように映像化するというプロセスで、チームラボは、いくつかの映像作品を創っています。そのプロセスを通して、何か発見できるのではないかと思っているからです。百年海図巻 「百年海図巻」は2009年の作品です。映像の尺が、100年のバージョンと、全長20m超、映像の尺が10分のバージョンがあります。
「日本にはパースペクティブとは違う空間認識の論理構造が培われていて,それが日本画を産んだ」という仮設をもとに、この作品はコンピュータ内部にいったん3次元空間を創り、その空間に物理演算で創った波を創り、それをチームラボが考える日本の空間認識を再現した論理構造で映像にしています。
日本の空間認識を再現した映像には、パースペクティブによる映像、つまり、ビデオカメラで撮った映像とは違った長所がたくさんあります。例えば、特定のフォーカス(焦点)がなく,鑑賞者の場所が特定されません。例えば,映画であれば映画館の真ん中が一番良い席で,そこから離れるほど悪い席になっていきます。しかしフォーカスを持たない この映像は、鑑賞者の場所に左右されないので,鑑賞者は自由に歩き回れます。
また,映像の投影面が平面でなくても構いません。百年海図巻は映像が途中で90度曲がっていますが,現場で見るとほとんど気になりません。これは,屏風に描かれた日本画を想像すると分かりやすいかもしれない。
もちろん短所もあって,客観的/物理的な大きさといった情報は,失われてしまいます。生命は生命の力で生きている 村上隆さんのカイカイキキギャラリー台北で今年4月に行ったチームラボ「生きる」展で発表して、今年の第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画展「FUTURE PASS」や、アートバーゼルにも出品した作品です。 この作品も同じように,3D空間を日本画のように射影しています。
静止画にすると日本画のように平面的に見えます。ところが映像がアニメーションになったとたん,平面的なはずの日本画が立体的に見えます。
パースペクティブが入る以前の日本人の目には,日本画は立体的に見えていたのではないのだろうかと思えます。レイヤーとしての空間表現 「生命は生命の力で生きている」は,オブジェクト(この場合は3次元的に書かれた「生きる」という文字)に対し,視点がとても近い。一方,「花と屍」(2008年)では広く空間を捉えています。この二つは同じ論理で作られているのだけれども,「花と屍」はレイヤーを使って描かれているように見えます。
実際「花と屍」を見た人は,しばしば「すごくたくさんのレイヤーを使って描いていて,大変ですね」といわれます。創り手としては、空間から創っているので、そう思っていなかったのですが、冷静に作品を見直すと,やはりいくつかのレイヤーで描かれているように見えます。花と屍 これはつまり「日本的な空間認識だと,近くのオブジェクトは立体的に見えるが,空間全体を捉えると,空間がレイヤーとして見えやすいのではないか」と考えています。日本人は,空間をレイヤーとして見ていたのかもしれません。レイヤーに見えていたからこそ,逆に,空間をデザインするときにも,レイヤーとしてデザインしたのではないかと考えています。
例えば、日本庭園は,レイヤーでデザインされています。一方,西洋の庭園はパースペクティブでデザインされていて,一つの視点から見たときに非常に綺麗に見えます。
西洋人は空間がパースペクティブに見えていたので,空間をデザインするときもパースペクティブなデザインをしたし,だからそうして作られた庭園は,移動するとしても奥行き方向への移動が前提になります。
日本人は,空間がレイヤーに見えていたから,空間デザインもレイヤーになる。そしてレイヤー式のデザインだと,横方向に移動しながら鑑賞しても美しさが保たれる、つまり「空間の認識の違いが,人間のつくるデザインに表れたのではないだろうかと考えています。
スーパーマリオとドラゴンクエストに見る日本画 さて,レイヤーで表現された空間が横方向への移動に強いというのは,ゲームでも発見できます。スーパーマリオブラザーズというゲームは、初めて、横スクロールという概念を生んだゲームです。スーパーマリオのようなゲームはレイヤー式の背景を有しています。
これは,日本の伝統的空間美意識を,無意識のうちに受け継いでいたのではないだろうか。つまり,日本人が素直に横スクロールアクションをデザインできたのは、レイヤーでデザインされた空間がまわりに多く、それゆえに、人の導線が横に動くことが多く、そして、レイヤーでデザインすることで,少ない要素でも空間を認識できるということを,無意識のうちに感じていたのではないかと考えています。
また,「洛中洛外図屏風」にあるような大和絵が持つ美術表現は,「ドラゴンクエスト」の画面に見る美術表現と同一であると考えています。異なるのは,大和絵はオブジェクトの側面も描かれていることで,これは絵巻物のスクロール方向に合わせているのではないか、またドラゴンクエストのオブジェクトに側面が描かれないのは,左右両方にスクロールするためだと考えています。
スーパーマリオのステージ選択マップも,大和絵と完全に同じ論理構造を有しており、地面に対して水平に存在する橋と,垂直に存在する梯子が,事実上同じようなオブジェクトで表現されています。これは大和絵にとっては普通なことですが,西洋ではあり得ない空間表現です。「なりきり」を支えた日本の空間表現 西洋のパースペクティブは、描き手の視点(下図、黒い人型)を原点として,扇状の空間が絵に描かれています(注1)。絵の中に登場人物(下図、赤い人型)がいる場合,その人物になりきって考えると,見えている風景が変わります。肖像画であれば、絵を見ている人が見えることになります(注2)。一方、大和絵において視点という概念は弱く,空間の把握はパースペクティブとは大きく異なります。日本画に描かれている人が,その人のからの画像を描いても、ほとんどかわらないでしょう。
こんな空間把握が行われていたというと,そんな馬鹿なことがあるかといわれるかもしれませんが、パースペクティブもまた同じくらい不自然です。人の目の焦点は極めて狭く,極めて浅い。実際の人間の目は本来,写真やモナリザの絵のように,全部のディテールが一度にはっきりと見えたりしないのです。人間はタイムラインの中で目のフォーカスを急激に動かしています。狭くて浅いフォーカスの範囲を、脳で合成して、パースペクティブの絵のように見えているだけです。 つまり人間は目という貧弱なカメラで何枚も何枚も連続して自分の周囲を撮影し、そうして得られた大量の絵を一定の法則を使って脳内で合成し,パースペクティブの空間として理解しているのです。
さて,昔の日本人は,大和絵のように世界が見えていた(認識されていた)と仮定しましょう(注3)。そして今、大和絵の中に登場人物が出てきたとします。登場人物になりきったとき,パースペクティブと異なり、見えている風景はまったく変わりません。絵を見ながら絵の中の登場人物になっても、そのまま絵を見続けることができるのです(注4)。
ドラゴンクエストでは,キャラクターになりきってプレイします。主人公になりきっているから、経験値が増えるととても嬉しい。そして,主人公になりきっても絵が破綻しないのが、ドラゴンクエストの空間表現です。ゲームというインタラクティブで主人公を操作するというコンテンツと、先人が永年構築していった美術表現が、非常に相性が良く、その美術表現を無意識のうちに引き継いでいたから、多くの世界的ヒットを出せたのではないかと考えています。
西洋のパースペクティブでは、先に解説したように、絵の登場人物にはなりきれません。その結果、手だけ、ハンドルだけ、飛行機のコクピットだけ、といった表現になります。画面の中に「こちらを向いた主人公」を出してして、主人公になりきると、見える風景が変わってしまいます。 日本の美術表現が、ゲーム産業ときわめて相性がよかった、もっと正確に言うと、ゲーム産業では、日本の美術表現の強みを活かすことができていたときに、日本はゲーム産業で世界的なリードができたのかもしれないと、と考えています。
今後、いろいろな産業が生まれてきたときに、その産業と、自分達の文化との相性が良いとき、文化の強みが活かされたとき、その産業は世界で勝ち残る力を保持できるのではないだろうか?そんな風に考えています。