アーティストの思い
チームラボはなぜ「境界のない世界」を目指し続けるのか
チームラボ代表・猪子寿之と、評論家・宇野常寛との対談からチームラボボーダレスを読み解きます。
これは、チームラボ代表・猪子寿之と、評論家・宇野常寛との4年間に及ぶ対談による書籍「人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界」から、チームラボボーダレスについて語っている部分を転載しています。
猪子寿之, 宇野常寛『人類を前に進めたい人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界』2019年 PLANETS/第二次惑星開発委員会, 2019, p.220-228 (CHAPTER 13 「世界」の境界をなくしたい)
人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界
2019.11.21
3080円(税込)
宇野 パリ展と、このお台場の「ボーダレス」をほぼ同時に進めていたわけだよね。タイトルの示す通り、お台場でもパリと同じメッセージをかたちを変えて発信している。
『グラフィティネイチャー 山山と深い谷』©teamLab
『グラフィティネイチャー 山山と深い谷』©teamLab
『マルチジャンピング宇宙』©teamLab
今、世界はおぞましい方向に向かっている気がして、そんな空気の中で、境界なく連続していることが美しい世界をつくりたかったんだ。
具体的に説明すると「ボーダレス」は、五つのコンセプトを持つ世界からできているんだ。
一つ目は「Borderless World」。アート自体が展示されている場所から動き出し、鑑賞者の身体と同じ時間の流れを持つ。そして、作品同士がコミュニケーションすることで、境界のないひとつの世界をつくり上げていく世界です。
二つ目は「チームラボアスレチックス 運動の森」。これについては後でも詳しく話すけど、一言で言うと「身体的な知」をアップデートする取り組みだね。
三つ目は「学ぶ!未来の遊園地」(『お絵かき水族館』、『すべって育てる! フルーツ畑』ほか)。
四つ目は「ランプの森」。2016年にフランスで展示した作品(『呼応するランプの森 - ワンストローク』)などを展示しています。
そして五つ目が、丸若裕俊さんが手がけるお茶「EN TEA」とコラボしたティーハウス『EN TEA HOUSE 幻花亭』。ここでは、器に茶が注がれると、その中に花が無限に生まれ、咲いていく作品(『小さきものの中にある無限の宇宙に咲く花々』)が体験できるよ。
『裏返った世界の、巨大!つながるブロックのまち』©teamLab
パリの『フラワーズ ボミング』の前で、シルエットでポーズをとる宇野。
猪子 「ボーダレス」の作品はぎゅうぎゅうで、壁も天井も床も満杯にしてしまうレベルの物量になっている。ミュージアムの施設面積が1万平米と超巨大なんだ。
宇野 この規模にチャレンジしたことは、結構本質的な話だと思うよ。規模のレベルで、これまでとは違う鑑賞体験にならざるを得ないと思うんだよね。既存の美術展って、普通は長くても数時間くらいで観終えられる想定のもので、これまでのチームラボの展示もほぼその範疇にあったと思う。
でも今回、全部をしっかり観るには最低半日は必要で、むしろテーマパークとかに近いものになってるよね。しっかり観ようと思うと、丸一日かけても作品のすべてを観きれない。
猪子 むしろ、全部を観てほしいとまでは思っていないよ。そもそも、作品が常にいろんな場所へと移動するから、全貌を把握すること自体がまず不可能なんだよね。たとえば、『カラス』や、そのシリーズ作品(『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして浮遊する巣』)では、その空間からカラスたちが飛び出して、ほかの作品の空間にいく。そんなふうに、本当に作品の物理的な境界がないどころか、作品そのものが移動先の空間やメディアによって違う様相を見せる展示になっている。
宇野 ある作品がほかの作品に侵入することで作品間の境界が喪失する、というのは17年のロンドン展から始まったコンセプトだけど(Chapter9参照)、今度はその発展形でひとつの作品が移動するごとに形態を変えていく。しかし、それは当然の進化だね。というか、そうじゃないと本当はいけない。境界がなくなって自由になっても、そのことで自分が変わらないと意味がないのと同じだね。
「チームラボボーダレス」のエントランスとお台場の観覧車の降り口は隣り合い、さまざまな人が行き交う。
小さきものの中にある無限の宇宙に咲く花々』と『茶の木』©teamLab
『呼応するランプの森』で本書の撮りおろし撮影中、猪子は宇野に自慢のオリジナル料理 「猪子鍋」の話をしていた。(Photographer:今城純)
『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして浮遊する巣』©teamLab
たとえば人間は動くことがより自然であるから、人々の体験に直接凝縮させることが作品であるならば、作品自体も人々と同じように動いていてもいいと思うんだよ。
あとは、人の時間は刻々と進んでいくのに、作品の時間は止まっていたり、映像だとカットが入ったりする。それが時空の境界を生んでいると思っていて、その時空の境界もなくしていきたいんだよね。
宇野 言い換えると、従来の美術館アートとは、空間のコントロールだったわけだよね。つまり、人間がある位置からモノを見るという物理的な体験を提供する場で、突き詰めると、作品に反射した光を目がどう受け取るのかということでしかない。それに対して、チームラボはそこに時間のコントロールを加えようとしてる。
そのときにポイントになっているのが、20世紀の映像文化、たとえば劇映画のように、作品の時間に人間を無理やり合わせていないことだと思う。チームラボの展示は、人間から能動的に没入しなくても、自由に動き回る僕らに対して作品側が食らいついてくるんだよね。これって、絵画がインタラクティブじゃないという問題に対する回答だと思う。猪子さんは以前、『モナ・リザ』を引用した名言を残していたじゃない? (Chapter1参照)
猪子 「『モナ・リザ』の前が混んでいて嫌なのは、絵画がインタラクティブじゃないから」ね。
宇野 そう。ほかの鑑賞者の存在で作品が変化していくのなら、むしろ『モナ・リザ』の前は適度に混んでいればいい、という発想だったと思うのだけど、それは言ってみれば人間と人間との関係に対するアートとテクノロジーの介入なわけだ。他者の存在がむしろ世界を豊かにする状態をつくり上げている。
対して、これらの作品は人間と時間との関係に介入している。「これ、もう観たっけ?」と思いながらウロウロする、あのとき僕らは通常の空間感覚を喪失して、さらには時間の間隔も麻痺しているのだけど、この「迷い」こそが作品体験になっているわけだからね。
猪子 そうそう、作品と自分の肉体の時間が自然と同調して、その境界がなくなってほしい。ただ、自分の肉体の時間と境界を感じにくい時間軸の世界をつくるわけだから、それってどこかで現実世界そのものになっていくんじゃないかな、とも思うんだけどね。
宇野 何年か前、猪子さんが「21世紀に物理的な境界があるなんてありえない」と言っていたときから、このプロジェクトは始まっていたんじゃないかと思う。というのも現代って、モノが切断面や分割点になりにくい時代だと思うわけ。たとえば、工業社会においては、車やウォークマンを持っているかどうかで、その人のライフスタイルや世界の見え方はだいぶ違っていたはずなんだよ。
でも、今はどちらかというと、「Googleをどう使うか」とかのソフトウェアの影響力のほうが強くなってきている。そしてそれらがコントロールしているものは、究極的には人間の時間感覚だと思うんだよ。空いた時間をどう使うかとか、買い物に行く時間をAmazonで省略するとか。インターネットが出てきた瞬間に空間の重要性はぐっと下がったから。そんなふうに、今はモノという空間的なものよりも、時間のほうが世界を分割していると思うわけ。
たとえば、ドッグイヤーとか言うじゃない? 東京やロンドンのような都市部の情報産業に勤めている人間と、ラストベルトの自動車工の人では全然別の時間感覚を生きていると思うんだよ。だからこそ、時間感覚に介入しないと境界線はなくならない。これはかなり本質的な変化だと思う。
猪子 なるほど。
宇野 時間はコピー不可能なんだよね。『モナ・リザ』という作品を何回も観たい人はいると思うけど、極端なことを言うと、もし記憶が永遠に続くなら一回観れば十分なわけじゃない? でも、チームラボの今回の展示って、時間感覚によって作品が変化するから、一回一回の体験が固有なものになる。
すでに理論上、我々は人間の網膜の認識よりも解像度の高い映像をつくることができる。この流れは複製技術ができた時点から始まっていたと思うんだけど、そうなったらますます美しい写真や映像のような、情報に還元できるものは希少価値を帯びなくなってくる。こんなことを言うと怒られるけど、僕らはもう『モナ・リザ』の現物とほとんど変わらないモノを、簡単に手に入れられるようになる。そうしたときに、モノの持つアウラみたいなものは、ほとんど意味がなくなるんだろうと思う。だから、チームラボが時間感覚に介入しようとしているのは、すごく重要なことだと思うよ。
人類を前に進めるべく、世界の真実について語り合う2人。『人々のための岩に憑依する滝』に埋もれる。(Photographer:今城純)
猪子 これ(「チームラボアスレチックス 運動の森」)は「身体で世界をとらえ、そして立体的に考える」というコンセプトのフロアなんだよ。「身体的知」についての考え(Chapter6参照)をすすめたものと言っていいかもしれない。
なかでも最近は「空間認識力」に興味があるんだ。実際、イノベーションやクリエイティビティと、この力が密接に関係していると言われているんだよね。でさ、森とか山とかの自然って、極めて複雑で立体的な空間をしているわけだよ。
宇野 世界は人間の意識でつくったもの以外、すべて立体的なはずだからね。
猪子 そう。だから都市空間は平面的すぎるし、紙もテレビもスマートフォンも平面だよね。そんなふうに頭だけで世界を平面的に認識しているうちに、平面的な思考が蔓延している。
だからこの「運動の森」では、強制的に複雑で立体的な空間の中に鑑賞者が入ることによって、空間認識能力を高めようとするプロジェクトなんだよね。
フロアにあるのは、身体中を総動員しないと進めないような、さまざまなかたちの立体的な作品。たとえば、チームラボが独自開発した、同時に複数人が参加できるトランポリンを使ったこの作品(『マルチジャンピング宇宙』)では、隣で跳んでいる人の影響を受けて、自分がいる場所が沈んだり跳ね上げられたりする。
宇野 「運動の森」の世界にはこれまでにないくらい広い『グラフィティネイチャー』 (『グラフィティネイチャー 山山と深い谷』) が待っていたね。本当に山を登っている気分だったよ。しっかり歩かないといけなくて、真剣なダンジョンでビビった(笑)。
猪子 こういった「身体で世界をとらえ、世界を立体的に考える」体験を通じて、脳の海馬を成長させ、空間認識能力を鍛えることができる「創造的運動空間」をつくろうとしているんだよね。そうした世界を立体的にとらえて考える力って、言葉通り従来の知とは次元がひとつ違うと思うんだよ。まあ本質的に言いたいのは、そんなふうに違う次元で考える「高次元的思考」と呼ぶべきものなんだけど、ちょっとわかりにくいから「立体的」にしてみた。
たとえば、猪子さんは「平和が何より大事だ」という話をよくするじゃない。国家とか平和って実際に存在するものじゃないけど、世の中に確実に存在していると我々は信じて生きている。そういった、本当は存在していないけど僕らの脳の中だけにあるものは、すごく二次元的なものだと思うのね。
そして今、我々はそうした「人間の想像力がなければ存在できないもの」を信じられなくなってきている。そのときに、猪子さんはそれを信じられるようにするために、テクノロジーの力を使って二次元を三次元に引き出している。そしてそのこと自体が、せっかくコンピューターの力で自然と同じように境界のない世界に近付いている僕たちの社会を後押しすることになっていると思うんだ。
猪子 たとえば強い個として認識されているものも、当たり前だけど世界との連続性の中の一部であって、些細で小さなものの連続性の集合の中で偶然的に生かされていて、そのこと自体が非常に美しいと思っている。それから、僕らが確実に見えていると認識していることや、当たり前に普遍的だと信じていることすべては、世界との連続性の中で、本当は脆く儚いと思うんだ。
宇野 「小説トリッパー」で連載(『汎イメージ論』)をしていると言ったと思うけど、チームラボは「人間同士の境界線」「モノ同士・作品同士の境界線」「人間と世界との境界線」という、三つの境界線を全部分解しようとしているんだということを書いてるんだよね。ただ、今話している二次元と三次元の境界は、それとは別の、第四の境界なのかもしれないと思う。それはたぶん、究極的には生死の境界線だと思うんだけど……ここらへんはもう少し考えていきたいね。
猪子 やっぱり人類を前に進めるためには、固定観念を破壊する必要があるんだよ。破壊と創造はセットだと思うしね。……それはともかく(笑)。「ボーダレス」も、この世界が好きという方が、年に20回も30回も来て、何度も遊んでくれるような場所になってほしいと思ってるよ。
「ボーダレス」設営工事中の様子。©teamLab
「ボーダレス」設営工事中の様子。©teamLab
「ボーダレス」設営工事中の様子。猪子はなぜかヘルメットが似合う。